古典の勉強

金閣寺の正面を左折して道なりに2車線の道を進んでいった。少しいくと立命館大学が見えて急に視界が開けてきた。軽い上り坂を上がっていくと建物ばっかりの風景から急に緑の自然が目に入ってきた。そして、下り坂を少しいったところに龍安寺があった。左手に竹林が見えてきて、仁和寺の大きな入り口が見えたところで信号が赤になってバイクを止める。信号待ちのときに、古典の授業を思い出した。仁和寺の和尚という徒然草第52段であるが、仁和寺に行きたいと思っていた和尚さんが意を決して仁和寺にいったが、門を入ってすぐの左手にある極楽寺と高良神社をお参りして帰って十分満足したという話であるが、実はその奥にもっと立派な八幡宮があるという話である。こういう面白い古典ばっかり勉強していったならばもう少し古文に興味を持つことができたのかもしれない。また、京都に住んでいたならより身近に古文を感じることができたと思う。出てくる地名が京都ばっかりである。日本の中心である京都について書いているのはしょうがないし、そういう書物が千年以上の時を経て現在に読み継がれているということは、世界的にも珍しいことであり、貴いことは確かである。古典を勉強する意味がわからなかった。文法を覚えても古文を読むことができるわけでなく、難しい古語を覚えることも苦痛だった。ましてや漢文なんて少しも面白くなかった。なんでレ点をつけて並んでいる漢字の順番を変更しながら読まないといけないのでろうか?と疑問に思った。確かに、最初は暗号を説くように面白そうだったが、すぐに飽きた。ましてやテストの問題になるとイライラしてきた。古典なんか勉強しても将来役に立たないと勝手に思った。数学嫌いが、因数分解ができなくても生きていくのに問題は無いというのと同じ論理だ。理系や文系に進むかは、感覚的なものだと思う。数学や物理は理詰めで解答を導き出せる。勉強すればするほど点数が伸びるという気がした。曖昧なところがなくて○か×である。そういうところが自分に合っていると思った。信号が青に替わった。道なりにいくと右手に大きな池が見えた。広沢の池だ。奥の山が真っ白くなっていて、今まで見たのとは全く異なる景色に胸が高鳴った。「こんなに綺麗なら嵐山はもっと感動するのだろう。」と思い、スロットルを回した。左折して踏切を渡ったら、渡月橋についた。雪の嵐山は格別であった。冬には緑色の杉と薄茶色の木々が混じった山肌を見せており、木々の三角形が織りなしながら遠巻きに嵐山の形を作っている。今日は落葉樹を雪が覆て山一面が真っ白となり、ここは雪国ではないと薄緑色になった杉が主張している。起伏が織りなした山の形状が今日は丸みを帯び、優しく微笑んでいる。「朝早くから良く来たね。」、とご褒美を神様が与えてくれた。